この記事は2001年9月のものです。現在の内容と異なる場合がありますのでご了承ください。

バックミラー
地元名古屋の魅力は尽きない

水谷 彰(西部営業基地)

 名古屋の幅下で生まれ育った。すぐ目と鼻の先が名古屋城。生粋の名古屋っ子である。 幅下は明治のころには比米町といった。江戸時代はもっとストレートで、姫町と呼称されたらしい。七代藩主徳川宗春のお姫様のお屋敷があったからだ。 昭和20年の大空襲でも、この一角だけは焼けなかった。お城の天守閣はその年の5月14日に焼け落ちている。戦後まもなくの小学生時分、お城に遊びにいくと、無数の焼夷弾が地面に突き刺さっていた。その無残さに、子供心にも身震いしたほどだった。
 だからすぐお膝元の幅下が戦災を免れたのは奇跡みたいなものだった。地元独特の、民家の屋根にお祭りしてある「屋根神さま」が守ってくれたのだと、近所のお年寄りは今でもそう信じている。

 名古屋の古い町並みや歴史に惹かれていったのも、生まれ育った環境のせいだと思う。ハンドルを握ってからも、名古屋が初めてというお客さまを、自分のお気に入りの場所へ案内する。これが楽しみなのである。

 ぜひにとお連れするのは徳川美術館。尾張徳川家の大名道具から国宝の源氏物語絵巻と、何度訪れても飽きることがない。お客さまに余裕があれば、江戸の風情たっぷりの四間道、名古屋発祥以来の堀川五条橋をガイドする。

 あるとき、はるばる高知県から名古屋見物に訪れた中年のご婦人に乗っていただいた。くだんの美術館はすでに見物されていた。和服が趣味と聞き、それではと有松・鳴海絞り会館をおすすめした。 伝統の絞り染めの歴史を披露した全国でも珍しい施設である。帰りの座席の上には、大きな買物包みがひとつ増えていたから、よほどお気に召したらしい。お互い上機嫌で、名古屋名物の話題で盛り上がった。

 お客さまが喜ばれると、こちらもついその気になる。車内には名所・旧跡や伝統工芸の資料をどっさり揃え、質問に答える体制を整えるのである。名古屋城築城の際、用いられたのはヒノキ、杉、松材で総数は3万7994本。こんな数字まで覚えてしまった。まさに病膏肓に入るで、自分ながら可笑しくてしかたがない。

 うまい具合に4年後には愛知万博が開催される。国内外のお客さまに地元の魅力を伝えるチャンスがくる。そう思うと、運転席横の資料の山がますます増えそうな予感がするのである。